きものを着るようになって戸惑ったことのひとつに、「今、着たいものがすぐに手に入らない」ことがある。きものはサイズに融通が利くというけれど、サイズが合わない時の違和感(特に裄と身幅)は、わたしには洋服よりむしろ大きい。多少はいいやと妥協したきものや襦袢は結局着なくなってしまった。既製品ではいささか具合の悪いアンバランスな体型なこともあり、どうしても反物から仕立ててもらうことが多くなる。
去年の夏、洗い替えの浴衣が足りず、7月末ごろもう一枚作ろうといくつかお店を当たってみた。仕立てるとどうしても割高になってしまうからこそなるべく好きな色柄を選びたかったのだけれど、気に入ったデザインはとっくに売切れているし、なかんずくこれならと思っても、仕立には早くても1カ月はかかるという。まさに今必要なのに、そんなに待っていたら秋になってしまう。仕方なくリユース品をあたってみたが、状態が良くてサイズが合っていて気に入ったデザインでしかも財布にやさしい…なんてものはそう簡単には見つからない。結局、不本意ながらデザインには目をつぶり、比較的サイズが近くそこそこ状態の良い絞りの浴衣で残暑を凌ぐことになった(格安だったので良しとした)。同じように、寒くなってから「派手な色の正絹の長襦袢が欲しい」なんて思っても間に合わない。考えてみれば、オーダーメイドなのだから時間がかかるのは当然なのだけれど、洋服とはまったく勝手が違い、「今」欲しいもの、「今」必要なものが手に入らないという「ままならなさ」に、わたしはちょっとイライラしていた。きものは柄行だけではなく、「したく」そのものにこそ「季節の先取り」が鉄則なのだ。
こんなに暑いのに冬物のことなんて考えられるかーとぷりぷりしていたときのこと。ふと、高校生の頃に読んだ染織家の志村ふくみさんの随筆(※)を思い出した。「桜色を染めようとすれば、春を待つ桜の木の皮で染める。花びらで染めると、緑がかった灰色になる。蕾のついた紅梅の枝の折り口はうっすら赤くうるんでいて、この枝から見事な紅色が染まった」…うろ覚えだが確か、そんな内容だったと思う。美しい文章で心に残っていたのだが、きものを着るようになってみると腑に落ちるものがある。「次の季節を待つ」「次の季節の準備をする」ことも、きものという衣服の楽しみ方なのだ。そう思うと、イライラすることはなくなった。
立春を過ぎ、暦の上では春でも底冷えのする毎日。気がつくときもの用のコートを物色していたりするが、今年はもう我慢。単衣を飛び越えて、今年こそ飛びっきり気に入った浴衣を仕立てるべく、あれこれリサーチしている。とっても楽しい。
奈良女子大学文学部を卒業後、美術印刷会社の営業職、京都精華大学 文字文明研究所および京都国際マンガミュージアム勤務を経て、2015年に独立。岩澤企画編集事務所を設立する。
ライター業の傍ら、メディアにおける「悉皆屋さん」として様々な分野で活躍中。
30歳のときに古着屋で出会った一枚のスカートをきっかけにモード系ファッションの虜となり、40代から着物を日常に取り入れるようになる。現在、病院受診と整体治療のある日以外はほぼ毎日、きもので出勤している。
岩澤さんブログ「みみひげしっぽ通信」
http://iwasawa-aki.jugem.jp/