初詣はきものでと楽しみにしていたのだけれど、年の瀬に家人がインフルエンザで寝込んだ上、家のリフォームのための仮住まいへの引っ越しが間近なこともあって、年末年始の長いお休みの間、結局一度も袖を通さずじまい。それに家中が段ボールだらけではそんな気にもなれない。
同時に不用品をものすごい勢いで処分しているので、「聖域」だったきもの類も思い切って見直すことにした。大した量ではないと思っていたけれど、いやいやどうして、なかなかの数だ。仕立ててから一度も締めたことのない帯があり、ほんの数回しか袖を通していないきものも何枚かある。ひとつひとつシビアに見直していると、今の自分の等身大のきもの生活とはどういうものか、明確になってくる。
まっさらの名古屋帯は、少し背伸びして手に入れたもの。わたしにとって名古屋帯は、日常的に着るにはちょっとだけハードルが高い。「めんどくさい」のだ、仮紐も、帯揚げも。そして頭のどこかで「ええ帯は(普段づかいには)もったいない」と思っている本末転倒。一方、つい手が伸びるのは質の良い博多織の小袋帯。締めやすく緩まず形が決まり、カジュアルなのに品がある。こちらは少々値が張っても、充分おつりがくるほど元が取れている。
ほとんど着ていないきものはどれも正絹の袷。暖冬化もあって着る時期が短いのもあるし、後で手入れに出すことを考えると、つい二の足を踏んでしまう。袖を通すのは、Gritterを筆頭に洗えるきものに偏っている。正絹の袷や長襦袢がどんなに美しく、また心地良いかよく知っているけれど、毎日着るものを汚すまいと緊張するのは肩が凝る。値段を気にせずメンテナンスに出せる経済力もない。家でさっぱりと水洗いして(それもできれば洗濯機で)、少々の汚れは気にせずさっさと気楽に着る、それが今のわたしにはいちばん心地良いきもの生活なのだと思う。帯ばかりやたら増えるのも、きものほど洗うことを気にしなくても良いからだ。
そして「ちょっといいな」程度で手に入れたものや、「〇〇がこの値段!?」という理由で飛びついたようなものは、文字どおり「タンスの肥やし」にしかならない。高い安い、誂えかリユースかなどは関係ない。そして、数も要らない。心底好きなものでなくては駄目なのだとイヤになるほど身に沁みて、フリマサイトをさまよう時間は極端に短くなった。 心底愛しているきものはまた、わたしのことも心底愛してくれる。着ているだけで元気になる。「愛し愛されて生きるのさ」がすべて。それは人でもきものでも全く同じだ。
奈良女子大学文学部を卒業後、美術印刷会社の営業職、京都精華大学 文字文明研究所および京都国際マンガミュージアム勤務を経て、2015年に独立。岩澤企画編集事務所を設立する。
ライター業の傍ら、メディアにおける「悉皆屋さん」として様々な分野で活躍中。
30歳のときに古着屋で出会った一枚のスカートをきっかけにモード系ファッションの虜となり、40代から着物を日常に取り入れるようになる。現在、病院受診と整体治療のある日以外はほぼ毎日、きもので出勤している。
岩澤さんブログ「みみひげしっぽ通信」
http://iwasawa-aki.jugem.jp/